1.イスラエルの拒絶と救い
・イスラエルは行いによる救いに固執し、神の義ではなく、自分の義を求めた。自分は正しいとして、彼らはキリストを受入れなかった。それどころか、キリストを殺した。
−ローマ10:3「神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです」。
・では、神は彼らを捨てられたのか、そうではないとパウロは言う。神は言われた「私はバアルにつまずかない7千人を残した」。私パウロもユダヤ人であるし、ローマの教会にも、ユダヤ人人はいるではないか。
−ローマ11:2-5「エリヤは、イスラエルを神にこう訴えています『主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、私だけが残りましたが、彼らは私の命をねらっています』。しかし、神は彼に何と告げているか『私は、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた』と告げておられます。同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。」
・ユダヤ人の拒絶を通して、異邦人が救われる。歴史はエルサレム教会に対する迫害があり、そのためエルサレムを追われた弟子たちにより福音は広まっていったことを示す。ユダヤ人の拒絶が福音を広めた。
−使徒行伝8:1-5「その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。・・・さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた」。
・異邦人の救いはユダヤ人という幹に、異邦人という野生のオリーブが接木されたようなものだ。接木された者がユダヤ人に対して、誇る所は何もない。何故ならば、根や幹は今なお、ユダヤ人のものだからだ。
−ローマ11:17-18「ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」。
・しかし、異邦人は、神はユダヤ人を捨てられ、自分達を選ばれたのだと誇った。キリスト教徒によるユダヤ人迫害の歴史はそれを示す。ナチスのユダヤ人虐殺は突然のものではなく、ユダヤ人迫害は2000年の歴史をもつ。
−ローマ11:19-20「あなたは『枝が折り取られたのは、私が接ぎ木されるためだった』と言うでしょう。その通りです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」。
2.神の憐れみと折り取られた者の救い
・神はユダヤ人を不信仰の故に裁かれたが、それは彼らを滅ぼすためではない。彼らを救うために裁かれたのだ。神は木を切る時にも生かすことを考え、裁く時にも救いを考えておられる。
−ローマ11:25-28「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。・・・福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。」
・私たちの関心は教会に来なくなった人たちの救いだ。彼らはバプテスマを受けたのに、教会から離れ、他の教会にも行っていない。神は彼らを捨てられたのだろうか。神は彼らを再び接木することができるとパウロは言う。
−ローマ11:23-29「彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。・・・神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」
・神の知恵は人間の思いを超える。私たちは誰が救われたとか、救われていないとか言うべきではない。それは神の領分だ。私たちは、ただ神が私たちを選んでくれたことに感謝するだけでよい。
−ローマ11:33-35「神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよういったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。」
・ボンヘッファーは牢獄の中で次のように言った。「神は全てのものから、最悪のものからさえも、善を生まれさせることができ、またそれを望まれるということを、私は信じる」。
−イザヤ55:9「天が地を高く超えているように、私の道は、あなたたちの道を、私の思いはあなたたちの思いを、高く超えている」
・これを信じて行くのが信仰だ。だから私たちは、どのような絶望の時にあっても、絶望しない
−ローマ11:36「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」。